ピチョン…
ピチョン…
シンクに響く水滴の間隔は、メトロノームのように正確だった。
その湿った音が刻むリズムは、40歳間近の男を少しづつ追い込んでいた。
笑顔の夫婦
晴れた日曜日の昼下がり。
家電売り場で夫婦は温かい笑顔に包まれる未来を思い描いていた。
清水の舞台から飛び降りる決意を胸に、夫婦はとある電化製品を購入したためである。
新家電3種の神器の一つ「食器洗い乾燥機」。
「育児中なら食洗機は早く買った方が良いですよ〜」
主婦系Youtuberが紹介していた。
一度そのような動画を観るとオススメ動画には似たような食洗機の動画が並ぶ。
そして動画の匠なセールストークで購買意欲は掻き立てられる。
初めて観た瞬間に芽生えた欲求は、YoutubeのAIによって着実に成長させられていた。
そしてその日、私達はYAMADA電機でその想いを成就させた。
震える指先
食洗機を購入する数日前の出来事である。
食洗機を取り付けるには、自宅の蛇口に「分岐水栓」というアイテムを付けないといけないという事がわかった。
分岐水栓とは蛇口から食洗機へ水を送るための出口を作る部材の事だ。
調べると食洗機本体とは別に、分岐水栓代と分岐水栓取付の工事費がかかる事がわかった。
そして、その分岐水栓は自分で取付る事が出来る事も。
私は考えた。
自分で出来るならその方が良い。
やってみよう、と。
この時点では自分が失敗するなんて想像は全く頭になかった。
リスクマネジメント能力は皆無。
とは言え、『買ったはいいけど出来ませんでした』は避けたい。
そこで私は、分岐水栓が無い状態で実際に動画を観ながら練習をした。
私に蛇口が分解出来るのか?
復元する事が出来るのか?
本当に取り付ける事ができるのか?
実際にやってみると初めてだと意外と難しい。
この部品はどのように取り外すのか?
分からない事が次々に出てくる。
四苦八苦しながら何とか解体と復元に成功した。
「分岐水栓の取り付けは自分で出来るぞ!」
練習で自信をつけた私は、その夜Amazonの商品ページを開いた。
しかし購入すると、もう後戻りは出来ない。
そんな思いが、スマホをタップをしようとする指先を躊躇させる。
しかし立ち止まっていても何も進まない。
何のために練習をしたのか?
自分に言い聞かせながら購入ボタンをタップした。
その指は少し震えていた。
「ふ〜・・・」
緊張感から解放され、大きなため息をついた。
腹はくくった。
あとは前進あるのみだ。
次の日に分岐水栓は届いた。
夢の中へ
分岐水栓が届いたその週末、YAMADA電機で購入し直接持ち帰った食洗機。
「我が家に新しい文明が取り入れられる」という期待は、私達夫婦を自然と笑顔にした。
まずは先日購入した分岐水栓の取付である。
練習の甲斐もあり、作業は順調に進んだ。
が、カートリッジという部品を取り外した瞬間だった。
突然、蛇口から水が溢れ出した。
パニック。
何が起きたのだろう。
吹き出した水を手で抑えようとするが、止まる気配は無い。
押さえ付けた手は逆効果。
勢いを増して周囲に水が飛び散った。
最悪だ。
なぜ水が溢れたのか?
答えは明白だった。
元栓を閉めていなかったのだ。
気が付いた私は急いでシンクの下に潜り込み元栓を閉める。
驚いたがひとまず水は収まったので安心である。
しかし次の瞬間、信じがたい光景を目にした。
「あれ・・・?」
取り外したカートリッジを確認すると、付いている筈のパッキンが無いのである。
2つ横に並んでついているうちの片方が無い。
周囲を探してみるが見つからない。
排水口に流れてしまったかと、排水口のネットを確認するが見つからない。
ここではまだ比較的冷静だったように思う。
(元々無いんじゃなかったかな・・?)
そうでは無い事はカートリッジの形状を見ればわかる。
しかし、「パッキンを無くしたかもしれない」という現実を受け入れる事が出来ていないのである。
私は、そのままパッキンがついていない状態で解体した蛇口を一通り復元した。
そして水が止まることを期待しながら、私は恐る恐るレバーを下げた。
水が出てこなければ、私の考えが合っていた証明となる。
(止まれっ、止まれっ!)
(出るなっ、出るなっ!!)
ピチョン…
ピチョン…
無情にも、湿った音はシンクに響いた。
呆然と立ち尽くす私の目に映るのは、自らの手で機能を失わせた蛇口。
水が止まる事はなかった。
パッキンがついていないのだから当然である。
だけど認めたくなかった。
パッキンを紛失してしまったと。
事の重大さが少しづつ理解、いや受け入れられるようになってきた。
水道の水が止まらなくなった。
また周囲を探し始めるが当然見つからない。
あるはず無いとは思いながらも隣の部屋まで探した。
時折、頭の中に井上陽水が顔を出してくる。
「まだまだ探す気ですか?」と。
直径約10mmのパッキンが見つかることはなかった。
言葉にならない。
私は小さな声で妻に告げた。
「・・・大変な事になった。部品がなくなったかもしれない・・」
かもしれないではない。
もう完全になくなっている事はわかっている。
が、まだ認めたくない気持ちが残っていた。
妻にも動揺を悟られたくなかったし、動揺させたくなかった。
私は落ち着きを取り戻そうとようやく元栓を閉めた。
当然水は止まるのだが、私の動悸は止まる事なく激しさを増していた。
時計を見ると、夜の7時を回っていた。
出来ない電話
私は重要な決断を迫られていた。
『暮らし安心クラシアン』に電話するかどうか。
ここに連絡すれば解決する事はわかっている。
しかし、どうしてもすぐに電話が出来なかった。
過去に一つの判断でこれほど迷った事はあるだろうか。
その前提にあるのは「絶対に連絡したくない」という気持ちがあったからである。
工事料金5,000円を払いたくないが故に、自ら分岐水栓を取り付ける事を判断したためだ。
検索すると、クラシアンに連絡すれば最低限8,000円はかかりそうな事がわかった。
本末転倒。
考えうる最悪の結末である。
それだけは避けたい。
何か他の案は無いだろうか?
蛇口メーカであるタカギに対策を聞くという案が頭をよぎる。
が日曜日の午後7時過ぎ。
会社に人がいたとしても出たくないタイミングである。
私なら出ないだろう。
何故こんな時間にこんな事を始めてしまったのか。
後悔先に立たずである。
私はこの水漏れが続く状況を打開すべく妻に提案をした。
「水道を・・使い終わったら毎回元栓を閉めるってのはどう?」
その声は小さく、かすれていた。
「・・・」
無言。
聞き取れなかったのだろうか?
いや、交渉の土台にすら立っていないのだ。
毎回閉めなければならないと言うことは、水道を使う時は毎回開けなければならない。
つまり蛇口を使う度に、毎回シンクの下に潜り込まなくてはならない。
時代は令和。
そんな不便なキッチンはなかなかお目にかかれない。
「いや・・何でもない・・」
私は察した。
クラシアンには電話したくない。
しかし毎回元栓を閉める案は却下。
八方塞がりである。
詰め物をするか?
いや現実的ではない。
電話はしたくないが、この状況を解決できる案がなければ電話するしかない。
心は揺れていた。
この時、私の脳内は7割が「クラシアンに電話するかどうか」、そして残り3割が「どうやって直すか」を考えていた。
そんな状態では両方とも正しい判断は出来ないだろう。
ここで一つの案が浮かんだ。
カートリッジをもう一つ購入する方がまだ安く済むのではないか。
そう思い、再度蛇口を分解しカートリッジを舐めるように眺めた。
しかしこんなピンポイントで同じカートリッジがホームセンターに売ってはいないだろう。
ほぼ諦めかける事で少し冷静になれたと思う。
このパッキンなら売っているのではないだろうか?
幸い、2つ付いていた内の一つがなくなっていたので、パッキンのサイズを測ることはできた。
しかしパッキンそのものが売っている可能性もそんなに高くないだろう。
念の為、近所のホームセンターナフコに電話して聞いてみた。
電話越しに長い時間待った。
定員さんは店内を走り回ってくれたのだろう。
だいぶ時間がかかったが「近いサイズのOリングという部品ならあります」と答えてくれた。
おぼろげながら希望の光がさした瞬間だった。
ロード・オブ・ザ・リング
私はわずかな期待を胸にホームセンターへ行く準備をした。
すると好奇心旺盛な3歳の息子が声を上げた。
「僕も行くー!」
この一刻も早く事態を納めなければならない時でも子どもは無邪気である。
台所が使えない状態で不安にさせたまま、妻に一人で子どもの面倒を見させるのも申し訳ない。
いや、それよりも余裕を見せたかった。
私は自分の保身のために、3歳の息子を夜の買い物へ連れて行く事にした。
私は息子を愛車のセレナに乗せてホームセンターへ車を走らせた。
後部座席のチャイルドシートから「何処に行くのー?」と楽しそうに聞いてくる息子。
私は運転中、相槌だけうち終始無言だった。
つまり無視である。
元気に返す気力はなかった。
客がほとんどいない店内は、はしゃぐ息子を放置して目当ての部品を探すにはピッタリだった。
しかし、約10mm程度のOリングを探すには、店内は広すぎた。
台所周りの商品売り場を見つけ探し回るがそれらしき部品は無い。
しかし、型式は異なるがカートリッジ本体らしき部品は見つける事が出来た。
(どうみても型式は違うけど一か八かこのカートリッジを買ってチャレンジするか・・)
こんな事を考えてしまう時点で冷静でないのだろう。
そんな事を考えていると、馴染みのある曲が流れて来た。
蛍の光である。
最悪だ。
私が希望だと思った光は発情した蛍だったのだろうか?
そんな筈はない。
もう自力で探している場合ではない。
ようやくそう判断できた私は店内を走り、電話対応してくれたと思われる男性店員に話しかけた。
「あの・・先程電話した者ですがOリングっていう部品を買いたくて・・」
「えっ?Oリングですか?え〜・・」
どうやら電話応対してくれた人ではなかったようだ。
ピンチ。
「えぇ電話ではあるって言ってたんですけど・・」
手ぶらでは帰れない。
息子は奥で走り回っている。
親失格だがここでは無視だ。
店員さんは一度店の奥に引っ込んでしまった。
確認をとってくれたのだろうか、急いで戻ってきて小走りで案内をしてくれた。
ついて行くと蛇口売り場とは離れた列の端の棚に並んでいた。
こんな場所分かるはずない。
そんな事を思ったが、ここからまた適したサイズの物を探さなければならない。
自分の採寸では内径10mmだったが、ようやく見つけたOリングは最も近いサイズで9.8mmだった。
いけるのか?0.2mmの差が問題になるのか?なぜピッタリ10mmで売っていないのだ?
そんな事を考えるが、これにかけるしかない。
蛍の光が焦りを誘う。
私は急いでレジへ向かった。
息子は奥で楽しそうに走り回っている。
親失格だがここでも無視だ。
何とか買い物を済ませた私は息子を米俵のように担ぎ上げ、店を後にした。
静寂の彼方
私はマンションの玄関を開けるや否や、袋からOリングを取り出し、復旧に取り掛かった。
玄関では息子が「靴が脱げない〜」と嘆いていた。
息子には自ら立ち上がる力を養って欲しいと願う私は、心を鬼にした。
無視だ。
不安と期待が入り混じる中、袋から取り出したOリングをカートリッジにあてがってみるとサイズが違う気もしなくもない。
しかし、そもそも伸ばして使用するものなので多少のサイズ差はあるのだろう。
無事にOリングをカートリッジに装着し、取り付け完了。
(いけるのか?いけるのか?)
(いってくれ!)
(頼む!)
残り最後の軍資金で回すパチンコ台のハンドル。
この時握りしめた元栓はそんなシチュエーション並みに魂が籠っていた。
私は祈るような気持ちで元栓を捻った。
・
・
・
静寂
広くない台所に一瞬訪れた静けさは、カートリッジが、そして水道が復旧出来たことを示していた。
「よしっ!!!!」
私は思わず歓喜の声を上げた。
固唾を飲んで見守っていた妻も一緒に喜んでいた。
自分で無くした物を買いに行き、自分で壊した物を元に戻しただけなのだが、この時の興奮は忘れられない。
しかし私にはまだやる事が残されていた。
元々は食洗機を設置するために片付けたキッチン。
当日中に設置まで終わらせなければ2度手間である。
私は水道を復旧させた時点で疲れ果てていた。
しかし最後の気力を振り絞り食洗機の設置、配線、配管まで終わらせた。
結局、我が家の食洗機の初めての稼働は、子どもを寝かしつけ終えている夜10時を回っていた。
我家に訪れた文明開花の音は、寝る子の横でよく響いた。
分岐水栓への想い
私をここまで苦悩させ、苦労させた分岐水栓。
自ら取り付けると判断した自分、そしてこの事態の呼び水となった分岐水栓を恨みたくなったが、今では逆にこの体験に感謝しなければならないのかもしれない。
皮肉にも、この時の記事は、私のブログで検索流入が最も多い記事(平均5件/日)となり、私の支えとなっているからである。
ありがとう分岐水栓・・
※当記事は以下選手権にエントリーしています。